地域紹介


葛西・南葛西の歴史



1.「葛西」という名の始まり〜歴史ある地名〜


 今から400年近く前の江戸時代には、今の江戸川区をふくめ、広い範囲が「下総国葛飾郡(しもふさのくにかつしかごおり)」と呼ばれていました。その後、江戸川を境に、東を「葛東(かっとう)」、西を「葛西(かさい)」と呼ぶようになりました。
 今の葛西地区(〜葛西と宇喜田町、清新町、臨海町)は、1889年(明治22)に「市町村」の決まりが作られたときに、四つの村が一緒になって「葛西村」となった場所がもとになっています。



2.「南葛西」〜昔は千葉県だった〜


 葛西地区の南側にある「南葛西」は、南葛西小学校ができたころは、「堀江町(ほりえちょう)」とよばれていました。今でも「堀江団地」や「堀江陸橋」という名が残っています。
 おもしろいことに、この「堀江町」は千葉県浦安村の一部でした。1896年(明治29)に「東京府」にうつされました。今でも江戸川区の対岸の浦安市に「堀江」という地名があります。



3.昔の葛西〜低湿地の漁業と農業のまち


 葛西は昔から、海と川に囲まれた低い土地でした。台風や大雨によって川があふれたり、津波や高潮におそわれたりしていました。そのため、家や田畑が水につかり、使えなくなることもしばしばありました。

 葛西村の人々は、漁業と農業をして暮らしていました。海で、のりを育てたり、あさりや魚をとっていました。田や畑では米や野菜を育てていました。1960年(昭和35)くらいまでは、葛西の海で、海水浴や潮干狩りができていました。また、のりを育てるあみが、沖一面にはられていました。

 のり作りは秋から春に行われていました。春から秋にかけては田で稲を育てたり、畑で野菜(はす・小松菜・春菊・つまみ菜)を育てたりもしていました。

 つまみ菜は長くても三週間で収穫できるので、のりを干す場所があいている時期に作ることが、葛西地区で広まりました。南葛西小から富士公園へ歩く途中の畑では、今でもつまみ菜が作られています。これは、小松菜とならんで、江戸川区の特産品です。



4.葛西の新しいまちづくり〜人々の願いと努力〜

 葛西には川が多かったので、人々は「べか船」という船に乗って、海でとったものや田畑で収穫したものを江東区方面などに運んでいました。また、交通が不便で、都心へ行くにもバスに乗って総武線の駅まで行かなくてはなりませんでした。
 東京に工場やビルが増えてくると、海や川の水が汚れてきました。また、工場では地下水をたくさんくみ上げてたので、ますます土地が低くなり、川があふれることも多くなりました。1960年(昭和35)くらいからは、漁業を続けることがむずかしくなりました。

 そこで、人々は協力して、土地の区画整理をはじめました。

 1969年(昭和44)には、地下鉄東西線が西船橋までつながり、葛西駅もでき、都心への行き来が便利になりました。そして、葛西地区にはたくさんの家やマンションが建てられ、人口が増えてきました。また、江戸川区防潮堤も完成しました。 

 一方で、南葛西地区の空き地には、産業廃棄物(ゴミ)が不法に持ち込まれるという問題が起き、地元の人々が問題解決に取り組みました。

 南葛西小学校が開校した1979年(昭和54)には、西葛西駅もでき、葛西地区はますます便利になりました。「清新町」「臨海町」の埋め立ても進みました。

 1984年(昭和59)には、感情7号線が区内全線で開通し、陸上競技場やプールガーデンもできました。

 1988年(昭和63)には、京葉線の葛西臨海公園ができ、翌年には、葛西臨海公園が開園しました。

 1996年(平成8)には、国道357号線(湾岸道路)の荒川河口橋ができ、都心方面への交通がますます便利になりました。また、下水道も100%普及しました。

 このように、葛西のまちは、人々の願いと努力で発展し続けています。とりわけ南葛西地区は、総合レクリエーション公園などの公園や緑も多く、暮らす人々もまだ増え続ける新しいまちです。そして、南葛西小学校は都内有数の児童数の多さを誇る学校なのです。